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諸事情により、
「ケダモノのすすめ」のアドレスを変更させて頂きます。
ブックマークの変更をよろしくお願いいたします。
http://ryuujienokida.blog120.fc2.com/
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「運」と昔から呼ばれているものはいったい何なのだろう。
「運良く」とか「運悪く」とか言って時には生死を分けたりもする。
僕も何度か死んでもおかしくない目に遭ったけど「運良く」生き延びて来た。
スポーツの試合の解説を聞いているとよく「流れが来ている」とか「流れを逃した」とか言っているけど、あれも「運」に関わりがある表現なのだと思う。
確かにスポーツの世界に限らず「流れに乗れない」人達というのはいる。
周りから見たらあともうちょっとでうまくいくのに「素っ頓狂」なことを言ったりやったりして「運」を逃してしまう。
結局、流れが見えてなかったということなのだろう。
「流れ」とは「関係性の流体力学」だと僕は捉えている。
家族、友人関係から始まって職場の人間関係、取引先との関係、近所付き合いや学校での関係等々。「場」のレベルが大きくなればなるほどばその関係性はより抽象性は増し、蓋然性は複雑な様相を呈してくる。最後は世界・宇宙との関係というところまでいってしまう。
「人智を尽くして天命を待つ」という言葉があるが、
「人智を尽くさず天命ばかり待っている」人が意外と多いことに驚かされる。
こういう人達は口だけは達者だけど一番身近な「関係性」をないがしろにしているケースが多い。例えば「自分の生活費を稼ぐ」という一番基本が出来ていないとかね。「自分」と「仕事」という関係は基本中の基本だと思う。だって食べていかなきゃならないんだから。
でも実は流れに乗ることは簡単だ。
目の前にあることに集注していけばいいのだ。
今やっていることに「やりがい」を見出し生み出せない人は、
やりがいのある仕事に辿りつけない。
何故断言出来るかというと自分で経験して来たからだ。
僕は2001年に火事に遭ってから、それまでの生活や生き方を全く改めなければならなくなった。火事というのはものすごいもので、運良く周りに住む人達に類焼を及ぼすことはなかったけど、自分たちの持ち物は「今着ている服と乗って出た車とたまたま持って出たギター一本」だけという状況に突然たたき落とされしまった。
その晩、寝る場所さえもないという状況の中、いろいろな人達に助けられて生き延びることが出来た。それまでなら絶対着ることのないようなデザインのサイズ違いの服もありがたく頂戴し来て歩いたし、来るもの拒まず何でもやって稼いだ。
そんな日々を家族と一緒に生き抜いて来た。
でも一度も恥ずかしいとかやりがいがないと思うことはなかった。
思う暇もなかったということだろうか?
そのかわり毎日が充実していた。
その充実感は質と量を増しながら今に至っている。
よく冗談で「スローが流行ってるみたいだけど、俺たちゃフローだな」と言って女房と笑い合った。
そう、結局われわれは「浮いて流れていく存在」なのだと悟ってから、
いろいろな物事が逆にうまくいくようになって来た。
舵もオールもない小舟に乗って家族で岸の見えない大きな水の上に浮いて流されていることにとてつもない安心感を持って日々を過ごして来た。
いつの間にかその小舟がイージス艦くらいになって来た(笑)。
流れに乗るのは簡単だ。
たんたんと目の前にあることにぴったりと寄り添っていけばいい。
「野暮」とは過大もしくは過小な行為をあざける言葉だ。
これは「ぴったり」から静けさを奪う。
「粋」とは少し間をおくこと。
これは「ぴったり」を生き生きさせる。
運って面白い。
ぴったりというのがどうもいいらしい。
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サラリーマンは自分の収入の三倍の利益を会社にもたらすことが出来なければ存在意義がないらしい。トヨタ自動車の関係者がどこかに書いていた。
20万円の月給取りなら毎月、60万円以上の利益を会社にもたらさなければならないということだ。
社員ひとりひとりがこのことを強く意識して活動しなければ、「無駄」が生じる。
働くということはつまりそういうことだ。
自分は一生懸命やっているつもりでも「会社」の実利益にならなければ金にはならない。
フリーの人間にとってもこの原理は全く変わらない。
会社がクライアントに変わるだけだ。
この辺のことを考えると働くということがどれだけ大変なことかわかる。
営業努力が足りないというより、その本質を理解していない人間が時々いる。
他人をけなすことが営業だと思っている連中もいたりする。
威張って「営業」になるのなら誰でも出来る。
自分の、あるいは自分たちの能力を集約して、それを「相手」のニーズに細かく対応させていかなければ「現金」にはならない。
フリーの人間は多くの人が欲しがるものを提供することが出来てはじめて「独立」して稼ぐことができる。
しかしこの場合でも
「自分が得る現金の三倍の現金」を確実にクライアントに保証する仕事を提供出来るかどうかということが「営業」の要になることは言うまでもないだろう。
これとちょっと毛色の違うのがNPOでの僕の仕事」だ。
これは今のところ僕には全く「現金」を生み出していない(笑)
NPOでの僕の仕事の本質は「仕事を生み出す」ということにつきる。
大きく分ければ以下の二つになる。
1.映像によるアジアの相互理解を深め、新しいレベルの映像市場を生み出す。
これは公益事業として地方自治体や政府及び中国と韓国の国立映像教育機関と連携して進められている。日中韓共同製作映画や横濱学生映画祭等の活動がそれだ。これはおかげさまで今年中にある程度形になる運びになって来た。
2.ケニアにおける大規模緑化を行なうための仕事を生み出す。
これも地道にやって来たおかげで緑化事業が現地の人たちの収入に繋がるシステムの構築も進んで来た。最初は試行錯誤になるだろうが、専門家のチームが出来て来たので非常に面白い動きになるだろう。
「仕事をつくる」ことができれば僕の現金収入にも繋がるという考えで7年程やって来た。しかしその間ふらふらと信念が揺らいだことは一度もない。
いろいろな人間がよって来て去っていった。
それでもまともな人間は残る。
しかもいつの間にか増えている。
高い能力とおおらかさを併せ持つ人が残り、
せこい人間は消えていく。
非常に感慨深い。
しかし失ったものある。
志半ばで天に召された仲間が二人。
二人ともかけがえのない人達だ。
慚愧に堪えない。
彼らも「仕事をつくる」仕事に邁進した戦士たちだった。
彼らのため、そして何より今を生きる自分たちのために今年は「三倍の現金」の法則をNPOの活動にも敷衍していきます。
言葉に出したかぎりはやり遂げます。
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90歳をとうに超えた祖母から来た年賀状を見ながら、
「チャンとする」ということに思いを新たにした。
僕は小さい頃、祖母に育てられた時期がある。
その頃、父は送電線工事の会社を立ち上げたばかりで、
母も50人ほどいた従業員の人たちの炊事洗濯等を全部一人でやらなければならなかった。
ちょうど高度経済成長の後半の時期にあたり電力はいくらあっても足りないという時代だった。
皆さん「なんでこんな山奥に」というところに鉄塔が立っているのを見たことがあるでしょう? そんな山奥に鉄塔立てるのだから宿舎には電器や水道などあるわけがない。母は毎日、宿舎の下を流れる川まで水を汲みにいったそうだ。一日の大半はそれに費やされた。
小さい頃の僕は今と違ってとてもやんちゃで、ちょっと目を離すとすぐにどこかに消えてしまって、僕のいないことに気付いた母をパニックに陥れていたらしい。何しろ熊や猪が棲息するほどの山奥なのだ。
ある日、僕は決定的なヤンチャをしてしまった。
近くの池に溺れて浮かんでいたところをたまたま通りかかった従業員に発見され、
一命を取り留めるという事件を起こしてしまったのだ。
母は重労働を続けながら、僕を「監視」し続けることの困難さを思い、
結局、自分の母親(僕にとっては祖母)に僕を委ねることにした。
そして僕は鹿児島の祖母のもとに送られることになった。
祖母は一人暮らしで(彼女の夫は戦死していた)自分で田舎に雑貨店を経営し、生計を立てていた。
鹿児島は昔は「薩摩の国」と呼ばれ、そこに住む侍達は、映画「ラストサムライ」に登場するサムライの原型になる程の益荒男ぶりを誇った。
祖母も「薩摩」の教育を彼女の母や祖母達から徹底的に叩き込まれた世代で、その教育がそのまま僕にも注ぎ込まれることになった。
当時の鹿児島は夢のようなところだった。
生き物はみんな大きく生き生きとしていた。
朝起きて戸を開けると祖母の育てている花々の匂いがさわやかな風とともに家の中に流れ込んでくる。空はどこまでも高く、桜島の火山灰を含んだ大地は南国の太陽に照りつけられて陽炎をくゆらせている。
今は廃線になってしまった宮之城線の線路わきの側溝はすぐ横の崖から湧き出した水に満たされ、そこには鮒や泥鰌、時には亀までが住んでいて、子供の僕にとって正に楽園だった。
おかげで両親から遠く離された寂しさを感じることもなく、
僕は毎日過ごすことが出来た。
しかし祖母の教育は厳しかった。
いつも「チャンとしなさい」と言われ続けた。
「チャンとしなければだめだ」としかられた。
おかげでいつの間にか「チャンとする」いうことが、
感覚的に身に付いた。
ではこの「チャンとする」とはどういうことか?
自分の子供を躾ける立場に立った今、
これを言葉で説明する必要が出てきた。
「チャンとする」とは要するに自分の背骨が全部感じられるような姿勢をとるということ。つまり自分の中にしっかりとした中心感覚を持つということだ。
「襟を正す」ということも同義だ。
試しに正座して襟を正してみればいい。
自分の背骨がよりはっきりと感じることが出来るはずだ。
自分の背骨がはっきり感じるようになればどうなるか。
美しく「動く」ことが出来るようなるのである。
美しく「動く」とは合理的に身体を動かすことに他ならない。
合理的に身体を使うことで全力で物事にあたることが出来る。
野に生きるケダモノ達のように。。
自分の中に中心をしっかり出すこと。
自分の軸を身の中にしっかりと感覚すること。
これがすなわち「チャンとする」ということなのだ。
これは人間の活動全般に通ずる基本なのだ。
このシンプルな感覚が人生に起こってくる様々な物事を乗り越えさせてくれる。
だからこそ祖母は僕に徹底的に「チャンとする」ことを叩き込んだのだと思う。
ともすればまとまりなく混沌としがちな自分のよりどころを
しっかり身のうちに持つことが「チャンと生きる」ことなのだと
祖母は僕に伝えてくれたのだと思う。
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情報を発信したり受信したりする時に注意すべきことは、
「事実のみを捉える」ということに尽きる。
その「事実」から自分の都合と感情を交えて抽出されたものが「真実」で、
これは人によって異なった情報として創られる。
「真実」はエッセイとか映画とかに描くべきことで、
報道として発信すべきことではない。
というのが僕の立場だ。
僕はアジアの映像教育機関の連携を進めている中でこのことを学んだ。
学生たちは徹底的にこの「事実と真実」の違いとその伝え方を学ぶ。
どこで?
いつ?
何が起こったのか、起こっているのか?
それは僕にとってある種の衝撃だった。
「お前がどう感じるかより事実をそのまま伝えること」がいかに重要で、それを誤ったばかりにどれだけ悲惨な事態を招く可能性があるのかということを歴史から徹底的に学ぶ。映像技術というものは世界に対し大きな影響を与えるものなのだから当然だ。
「事実」を共有した上で「私はこう考える」「私はこう思う」ということを明らかにしていかなければ結局力を結集しきれない。
事実は真実よりもはるかに共有しやすいものなのだ。
だから事実を共有出来ればそれだけで力となるのだ。
今のようにネットが発達した環境では、特に映像情報の扱い方は慎重にすべきである。
立場や環境によって「真実」は異なる。
この原理をうまく利用してコントロールしようとする人たちがいることを忘れてはならない。彼らは私たちの「心」の性質を利用して力を分散させることに巧みだ。
その映像に映っているものが何も事情を知らない人たちにどういう影響を与えるかということにまで思いを馳せる必要がある。
興味がある人は「真実」に集うことができる。
だけど本当に力を結集したければ興味のない人たちと「事実」を共有することから始めるしかない。
何かをなそうとする人は、自ら事実と真実を混乱させることを徹底的に排除しなければならない。
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物事には中国医学で言うところの「経絡※」のようなものがあり、
そこをしっかりと見いだし、適切な対処が出来れば、
どんなに大きく困難なように見えても物事は自然に動き出していく。
自然にはそういった法則が働いているから
能力のある人間が集まれば大抵のことは可能になっていく。
ただ、ものによってはその動きの時間の尺度が人間のそれを越えているので、
自分の中に混乱をきたす人もいる。さらにその混乱を他人と共有しようとする人もいる。これは迷惑な話しだ。
しっかりと落ち着いて考えたり感じたるすることさえ出来れば、
打つ手は出てくるのに、自分の無力感に苛まれて耐えられなくなるのだろうか?
気持ちは分かる。しかしここはこらえねばならない。
出来ることと出来ないことのけじめをしっかりとつけていく。
そこからはじめて策が見えてくる。
例えば、今の僕には戦争や貧困を瞬時に地上から消すことは出来ない。
でもそのこと自体で嘆いたり大騒ぎをするつもりはない。
嘆いたり大騒ぎして変わるものならもうとっくに変わっている。
如何に自然の法則にかなった動きを起こし、物事を「自然発生」させていくかということだけに集注して、自分の一生を越えた動きを感じとる努力をし、
そこを見据えた「事業計画」をたて、それを実行していく。
それ以外にいい方法があれば僕は知りたいと思う。
※経絡
1 《「経」は縦の流れ、「絡」は横の流れの意》漢方で、つぼの筋道。気血の循環系で、12の臓腑(ぞうふ)に対応する12の正経と8の奇経(きけい)があり、これに沿って経穴(つぼ)が配置されている。
2 物事の筋道。脈絡。
大辞泉より
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「希望」と「気休め」の違いが分からない人がいる。
歴史を観ると自分の信念を貫き生命を燃やし尽くした人たちがいくらもいる。人はいつか死ぬ、ほとんどの人は100年と生きれない。
「この星に今まで何人の人が生まれては死んでいったのだろう。。
何組の親子や恋人達が死によって分たれたのだろう。。」
というようなことを遅い冬の到来を待つ富士山嶺を歩きながらながら思った。
この世に生まれて来た意味は自ら生み出すもの。
それが「希望を持つ」ということだと僕は考える。
僕が身体の不調に悩んでいた時、
僕の先生が「自分の身体の中に元気なところを見つけ出すことが出来れば良くなる」と言った。最初はそれこそ「気休め」にすぎないと思ったが、僕の先生は即座にその方法を僕に示し、僕は自分の中の元気を発見し、それからみるみる状況が変わって来た。
「希望」は感覚に根ざし、「気休め」は論理に根ざす。
感覚には根拠がない。
根拠がないから力となる。
恋愛を見ればすぐ分かる。
論理で恋に落ちる人を僕は知らない。
今、世界には悪いニュースばかりが蔓延っているように見える。
しかしそんな世界の中にも「元気」を見いだすことは出来るはず。
僕は僕なりに見いだしたその「元気」を頼りに生きている。
そうすると不思議なことが起きる。
「希望」を見いだし、それを目指すことが生きるということだと僕は自分の子供達に臆せず言うことが出来る。
ありがたい。
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昔友達に面白い話を聞かされた。
それは「罪と穢れ」の話だった。
彼が言うには「罪」とは「つつむ」から来ていて、
「本当の自分を包み隠す事」が「罪」という事なのだそうだ。
自分の正直な気持ちや素直な感じを隠し続けると、
「元気」がなくなってくる。
つまり「気」が涸れてくるという状態になり、
これが「気涸れ」すなわち「穢れ」ということらしい。
これは面白いと思った。
我々はむしろ
素直に感じること。
自分に正直になること。
に何となく抵抗を覚えていないだろうか?
僕はよく今の教育を「ダメマダ教育」と呼んでいる。
家ではお母さんに「ダメダメ」と言われ続け、学校では先生に「マダマダ」と言われ続ける。これを続けてやられているうちに、「素直に感じる」「自分に正直になる」といった能力をスポイルされてしまっているのではないか?
素直に感じることや自分に正直になることに「罪」の意識を感じる必要は全くない。
僕は、「気涸れ」た状態にとどまっている方がよっぽど罪作りだと思う。
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自分探しの旅や天職探しの旅に出て行方不明になってしまう人がいる。僕にもそういう時期がありました。周りにも何人か、本人から「捜索願い」の出てる人(笑)がいるので、今日は僕の経験から少しお話させて下さい。
世界にはあまりにたくさんの「素晴らしい」(?)ものがあるので、自分のやりたい事が分からなくなってしまいがちになる。自分のやりたい事が絞り込めない。
ではどうやって「絞り込んでゆく」のか?
ここに簡単な公式を紹介します。
1、今、目の前にある事を全力でやる
まず、今の現実は今までの自分の生き方が現れたものなのだということを受け入れる。そしてその上で、例えば、あまりやりたくないバイトをやっていたとしても、それを全力で行う気構えを持つ。この姿勢を持たないといつまでたっても自分が必要としている能力が身に付かない。能力が身に付けば自然と次のステップが見えてきます。
2、動くものから動かす
どんなに困難に見える状況も小さなパーツから出来ている。そのパーツの中から「動くもの」を選び出す。動かないものを動かそうとしても消耗するだけです。
今直面している現実の中に「動くもの」見いだす訓練を行っていく。それを続けているうちに自分が必要とする能力が知らないうちについてきます。
僕はこの二つを実践してきました。
すると不思議な事が起こります。
自分のやりたい事が自然に「絞り込まれ」て来るのです。
自分が必要とする能力が自然に「開発され」てくるのです。
すると自分が夢中になってできる仕事を「やらされて」いるという状況が生まれます。
僕はこれを『自分の人生をプロデュースするための公式』と呼んでいます。ある程度時間はかかると思いますが、結局僕はこの方法が一番近道だと思います。「捜索願い」を出されている方はこれをそれぞれの現実に当てはめて実行してみることをお奨めします。
僕はこの公式を実行することで「青い鳥」が自分の肩にとまっているのが見えるようになりました(笑)。
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差別の本質は洞察や感覚することが、ある時点で停止してしまうことにあると思う。
「あいつは馬鹿だから」と言ったとたんに言った本人が思考停止に陥ってしまう。それこそ「馬鹿」になってしまうのだ。
昔、「馬鹿って言った人が馬鹿なんだ」と言われたのはこれの事だなって最近気づいた。
思考停止はとても危険だ。
「あいつは〜だから」
「あの民族は〜だから」
「あの大統領は〜だから」
「あの首相は〜だから」
「あの国は〜だから」
「あの会社は〜だから」
等々。。。。。
マスメディアを使って我々の思考を停止させようとする動きもある。現実はとてもたくさんの要素で出来ている。まして「人、モノ、金」がシステム化されている国や組織を批判する時に、ただ単純に「〜だから」と言ってすませる事の愚かさは冷静に考えればすぐ分かるはず。歴史も証明している。
相手を蔑んで自己保全する時代はもう過ぎた。
思考停止を解除していきいきと生きていきたい。
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